ええとこ“因島”

因島は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、温暖な気候に恵まれた美しい自然と、2016年4月に日本遺産となった村上海賊をはじめとする、豊かな伝統・文化にはぐくまれています。
2006年1月10日、因島市から尾道市と合併して尾道市因島となり、人口は約23,000人(2017年6月現在)です。
因島の名前の由来は伝承としていくつかありますが、本州側から見ると、向島・岩子島・細島・佐木島によって隠されているので「隠(いん)の島」と呼ばれるようになった説と、後白河院の荘園だっだことから「院の島」と呼ばれ、のちに「因の島」→「因島」になったという説等があります。

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“日本最大の海賊”
因島村上海賊の島

南北朝時代から戦国時代にかけて因島を拠点として活躍した村上海賊。その時代の瀬戸内海の制海権を握っていました。遣明船の警護の他、多くの合戦に参加し、1576年大阪木津川口の戦いでは、石山本願寺に兵糧攻めを企てる織田信長の水軍を、毛利勢率いる村上海賊が見事な連係プレーで撃破しました。その息の合った戦法に、信長の水軍はまったくと言っていいほど歯が立たなかったと言われています。
2016年4月に日本遺産に認定され、資料群を展示した因島水軍城構成文化財の城跡など、今、注目を集めています。

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八朔発祥の地

はっさく大福やはっさくゼリーでおなじみの八朔は、因島が発祥の地です。
八朔の原木が祀られている田熊町の浄土寺伝によると、万延(1860年)の頃、小江(おごう)恵徳(えとく)上人の生家の畑に、近所の人が捨てた柑橘の種から発芽、成長し、自然交配を繰り返して誕生したのが八朔で、旧暦の8月1日(八朔)頃から食べられる柑橘ということで、この名前がついたとされています。
大正の終わりから昭和にかけて当時人気のなかった八朔を、田熊町出身の田中清兵衛さんが大都市へ売り込み、知名度向上に尽力されました。八朔は次第に全国へ広まり庶民の味として定着していきました。

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島をいろどる除虫菊

除虫菊は、かつて蚊取り線香など殺虫剤の原料として栽培されていました。因島は、明治から昭和40年ごろまで除虫菊の栽培が盛んで、全国有数の産地でした。毎年5月になると山を真っ白に覆いつくし、初夏の到来を告げていたと言います。現在は一部観光用に栽培され、写真撮影会や除虫菊まつり、線香づくり体験等が行われています。

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島を支える造船業

古くから造船のまちとして栄えてきた因島。日本が建造量世界一となった最盛期には、島の労働人口の8割にあたる約9,000人の方が造船マンとして活躍していたと言われていました。今もなお、海上自衛隊艦船のメンテナンスを手掛けるなど、培われてきた技術は若い世代へと引き継がれ、島を支える一大産業となっています。
因島では船の進水を、全国的にも珍しい「ボール進水方式」で行っています。進水斧が振り下ろされ、船を支えていた綱が切られると、船がゆっくりと海へ滑り出し、水しぶきを上げて巨体を浮かばせます。大きな船が海へ滑り込む迫力と、それを見守る造船マンの姿が感動的です。

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島に伝わる伝統芸能

因島の伝統芸能として代表されるものとして、広島県無形民俗文化財に指定されている、「椋浦の法楽おどり」があります。手には太刀と扇子を携え、薄化粧した男性達が、「なむあみでーば(南無阿弥陀仏)」と唱えながら、「とんだ、とんだ」の掛け声に合わせて飛び踊ります。村上海賊の出陣式がこの祭りのルーツであると伝えられ、五穀豊穣・無病息災などを祈る行事として、現在もなお椋浦町の方々によって継承されています。
他にも、広島県無形民俗文化財指定の中庄神楽や、尾道市民俗文化財指定の田熊神代神楽があります。
また、因島村上水軍陣太鼓や、重井町の馬神太鼓保存会、西浦子ども水軍太鼓等、各地域で伝統を受け継いでいます。