講演会「塩の荘園 弓削島荘と村上海賊」アンケートの質問回答

講演会「塩の荘園 弓削島荘と村上海賊」にご来場いただき、ありがとうございました。
アンケートで質問いただきました内容の回答を掲載致します。

Q1 村上海賊という名称について、どうしてこの名称になったかを知りたい。

A 「海賊」という単語は、村上氏が活動していた室町時代に使用されていました。当時の文書にいくつかの事例が確認できます。『満済准(まんさいじゅ)后(こう)日記(にっき)』の永享6年(1434)の記述に「備後海賊村上と申す者・・」とあります。また、戦国武将毛利隆元の手紙にも「海賊殿」と書かれた部分があり、現在の「海賊」とは違ったニュアンスで使われています。
こうした当時の歴史や村上氏の様々な活動を考慮して、村上海賊という言葉を使用しています。

 

 

Q2 塩田が弓削島より因島側 因島や生口では島全体であると思うが、どのような場所が塩田として適していたのか。

A 弓削島での調査では、中世の揚浜式(あげはましき)塩田は浜堤(波の作用で汀線に沿って形成された低い砂の高まり)、またはその後背地に形成されていることがわかりました。弓削島の東海岸は急峻で平地が乏しく、中世塩田は主として西海岸や北端の砂浜海岸に分布しています。しかし、中世以来弓削島の海岸部に広く分布していた揚浜式塩田は、江戸時代中期から後期にかけて、新たに開発された入浜式塩田が普及すると規模を縮小し、別の用途に転用されました。入浜式(いりはましき)塩田は、潮汐(ちょうせき)によって海水を塩田に引き入れる必要があるため、周辺の島々では広い干潟のような地形の場所に造成されました。

 

 

Q3 弓削と因島の関係が深いが、なぜ弓削出身の人が因島につながっているのか。(水運の関係か)

A 講演にもあったように、元々、因島と弓削島は同じ東寺領荘園として中世からつながりがあり、村上海賊の時代にもその勢力下にあるなど、共通した環境にありました。江戸時代以降は、瀬戸内海廻船の寄港地として、塩の産出・中継拠点として、また、近代には因島の造船業等での生活圏など、様々な共有した環境にありました。

 

 

Q4 備後国安芸国について関連性(歴史全般)を詳しく知りたい。

A ご質問の内容が非常に広い範囲となりますので、ここでは詳細にはお答えできません。「塩の荘園」に限っていえば、因島荘(いんのしまのしょう)や弓削島荘(ゆげじまのしょう)には、安芸国、備後国双方から様々な勢力の妨害や押領がありました。因島荘については、備後国尾道浄土寺が地頭職(じとうしき)であったり、安芸国の小早川氏が地頭や領家に任じられた時期もあるなど、どちらとも関係があります。また、弓削島荘でも南北朝時代になると小早川氏庶流の小泉氏が進出し、応安4年(1371)には小泉宗平が荘園経営の請負代官となりました。